若社長の秘書
@jwg2ycnz
会社改革?に取り組む次期社長との日常│若社長はまだ社長ではないし、私は秘書でなく総務事務員│28卒から採用責任者(予定)│専門分野は勤怠と社保とウチの若社長
二年目で採用や教育に多大な貢献をしてくれている社員について語る若社長と私▶私「本当頭上がらないですね。優しくて面倒見がよくて責任感があって、こう…人間ができている」若社長「我々と違って欠落していない」私「本当にそう。我々とは違う」
大学時代は「顔が死んでる」という理由で怒鳴られる部活にいた。おかげで、オンの時間中は顔を作るという癖がしみついたのは良かったなと今思う。一方で、その感覚は決して当たり前でなく、安易に他者に求めてはいけないもの。淡々と自分のすべきことをやるのみ。
誰もが盗人になれる環境にしない施策に対して「私たちを疑ってるんですか!?」みたいに言われてしまう場面があって、それは根っこの信頼に瑕疵があるということなのかな。「その状況は危ないと提言してくれるはず」という形の信頼がとても素敵。性善説性悪説で二分できない、する必要もないのかも。
社員を信頼するとはどういうことか。 例えば、机の上に無造作に現金が置かれていて、誰でも持って帰れてしまうような環境があるとして、そのお金が盗まれた時に、「やっばりうちの社員は信頼できない」となるのか? 僕はそれは違うんじゃないかと思う。…
人間目から入る情報に強い人と耳から入る情報に強い人がいると思っていて、自分は耳から入る情報は一瞬で処理できるけど目から入る情報の処理はすごく遅いので、学習する時も本を読むより聴き流しみたいなものが一番頭に残る。 こういう個々人の特性もマルチモーダルが最適化してくれるかもなぁ。
私はコミュニケーションがだめだと思ってたけど、チャットに出会ってすごく救われた。私の場合は時間を要するのもあるけど、体感として耳を使ってる間、言葉を作る機能が停止してしまう感じ…。とはいえ会話から完全に逃れることはできないので、なんとか人並み程度には鍛えていきたいところ。
私はコミュニケーションがだめだと思ってたけど、チャットに出会ってすごく救われた。私の場合は時間を要するのもあるけど、体感として耳を使ってる間、言葉を作る機能が停止してしまう感じ…。とはいえ会話から完全に逃れることはできないので、なんとか人並み程度には鍛えていきたいところ。
考えを言葉にするのに時間を要する人もいる訳で、その意味でも「対面でその場で」「電話で」以外のテキストコミュニケーションの選択肢は大切にしたい。 (その場の脊髄反射で、浅い考えを声高に主張する人よりもベターなケースも多々) #コミュニケーションの問題地図 関連
若社長のロープレ課題は、詳細は書かないけど、若社長と最も縁遠いトピックでモヤモヤする女性相談者で、合理的着地を模索する若社長と相談者で堂々巡りに陥って終わったのだそう。あらゆる資格をパッと取得してきた若社長が「手応えが全くわからない…落ちたかもしれない…」と言うのを面白がる私。
若社長がキャリコンの面接試験(ロープレ)を受けてきた。キャリコンのあるべき姿って何なのだろう?多くの人が「モヤモヤ」状態で訪れると思うが、そこで合理的解決を目指すことが必ずしもモヤモヤを解消したりその人を救うことにはならない気がするし。話しただけでスッキリ、な世界もあるし。
「一駅分だけ歩いてみる」を「日常で軽い運動として試せる」人の割合はどれくらいなんだろう。東名阪福住まいの人の七割くらい…? この表現を当たり前に使われると、自動車社会地方民としては腹立つんだよな。あと、一駅早く降りたら通勤経路を逸脱したことになるのかもいつも気になってる。
コワーキングスペースで勉強していたら背後でカウンセリングみたいな1on1が始まった。反面教師として大変参考になった。カウンセラーが喋りすぎ。善し悪しの価値観は相談者自身のものであるべきだと思うけど、こうするべき、みたいなのをカウンセラーが押し付けてる。入会金と月謝の話で終わってた。
投票行ってきた。選挙広報でいつも不思議なのは、投票の呼びかけとして「投票難しくないよ!」みたいなアプローチが多いこと。なんで? 私にしてみればこんなの「投票しねえやつは後から文句言う資格ねえぞ」の一択だけど。だから私は、別に私の一票で何も変わらんとしても、毎回投票に行くよ。
昨日の帰り、二年目と一年目が一緒にご飯行くんですーってバスに乗っていて、おばちゃんはあまりの微笑ましさに溶けました。いい会社だ、間違いない。この穏やかなつながりがウチの会社をウチの会社たらしめている。若手社員の皆ありがとうね。ウチの会社に入って、ウチの会社をつくってくれて。
「労務のことを何も知らないのにアレコレ論評するおっさん」から新入社員を守りたいが、「あの人は何も知らないのに好き勝手喋ってるだけだからね。わたしの言うことだけ信じてね」と言うわけにはいかず………。
「どんな出来事について謝ろうと思うか」と「謝り方」には個人差があるという当たり前の事実。謝ってほしかったのに謝ってこないというだけで拗ねてはならない。それは私が軽んじられていることを必ずしも意味しない。まあそれはそれとして、腹は立つよ。