劉楓義真(ラウフォン・イースン)
@sangokuyuuki1
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馬謖は街亭の戦いでの一件で言っているのでは?でも街亭の戦いは演義のイメージが強すぎるような気がする。 あと多少なり自信家でなければあの乱世、生き抜くのは難しいと思います。
おはようございます。中国語でスタバは星巴克、マクドナルドは麦当劳など近い音の漢字が当てられてますが、ピーチはもう“丕ー植”でいいんじゃないかな?。曹丕曹植のタ丕オカ丕ー植(ピーチ)豆乳ドリンク、豆乳にピーチシロップが入った曹兄弟ドリンクです。今日も18時まで、宜しくお願い致します。
龐統の献策のうち、上策である成都急襲案を、玄徳は何故採らなかったのか?また龐統は何故その策を上策としたのか?またかつて劉璋を捕える事を提案し、さらに成都急襲を提案した龐統が、戦勝を喜ぶ玄徳を窘めたのは何故か?このあたりに龐統の人間性と、玄徳との信頼関係の理由があると考えられる。
『演義』も龐統の人間性はとらえきれないところがあったのか、孔明への対抗意識を創作している。 しかし史実では龐統が玄徳に仕えたのは建安15年の周瑜の没後間もなく、おそらく建安15-16年頃と考えられ、建安17年には蜀奪取の戦いが起きている。近侍したばかりの龐統への信任の篤さは尋常ではない。
あるいは”璞”であったと伝わっていて、どっちにしても類例が少なく、こんな珍字が果たして避けにくいものであろうか?と却って疑問が湧きますが😅、文章の語彙としては珍しくない字句だったのかもしれませんね🤔 当人が良いと言おうが、子としては尊父の名を厳格に避けられるべきと思ったのかも😌
正直自信家だから嫌われてたなんてのはちょっと待ったと言いたい 傲慢と自信家は=みたいな口調で言ってる人いるけどコミュ力高くて気遣いも出来る自信家はいてもおかしくないでしょ
上中下策を立案したのが本当に龐統なのか?という疑問は…当然、ある。 成都急襲にせよ楊懷高沛が玄徳を追い払うように劉璋に進言していた事にせよ、蜀の地理や内情に余程精通していた人物でなければ、計画は難しい。龐統傳「聞〜」とあり、楊懷高沛の事は伝聞と言っている。龐統は誰から聞いたのか?
民間伝承(中国では劇になってるらしい)では孫夫人が禅ちゃん連れるのを周瑜が追いかけてて途中でダミーの車があってそれに気づいた周瑜が話しかけるんだけど、 最初車の中から「女声」で反応してて周瑜が近づいたら 「残念俺でしたー!」って張飛がドーンって出てくる話あるんですわ。
最終的に張飛が乗り込んできて、孫夫人と交渉して禅ちゃんを返してもらうという形になって解決するが、だからといって張飛をageる目的でそういう展開にしたのではないと思うんよな 趙雲の冷静さと張飛の強引さ、ふたりが一緒に居てこそ解決出来たという話やと解釈している
①夷陵での大敗が響いて将兵が足りず、実際には八陣図を運用しなかった ②八陣図を考案したものの、実際に運用したのは車蒙陣だけだった ③八陣図を運用していたが、諸葛亮しか全ての陣を扱えなかった どれなんだろうなぁ……。
馬隆が用いた車蒙陣も八陣図の一部ということなら、実際には偏箱車などを用いて様々な敵軍に対応できるというのが諸葛亮の八陣図の凄さなんだろうなぁ(たぶん既に他の方が唱えてそう)
魏延もね。お気に入りだと思う。めっちゃ厚遇してる。 劉備に認められ嬉しかったのか劉備に対しては良い子ちゃん。父が早くに亡くなってるのが一つあるのかも知れないけど、半分お父さんだったのかなと。 後年もコミュニケは苦手で全員に公平中立というスタンスになったのかなと思ってます
瑾兄上にしても「弟が孫権様に仕えないのは、私が劉備に仕えないのと同じことだ」という、忠義心と機知の効いた名言を残していますが、息子は基本的に「相手を言い負かす」つまりエゴにその機知を使い尽くしてしまった。 ロバと馬鹿にされた父の面子を保った逸話とかは良かったのですがねー…