作場知生 Sakuba Tomomi ガラージュ完全版:配信中!
@sakuba
『ガラージュ』監督 Garage:Bad Dream Adventure ▶️Switch: http://bit.ly/3VjEyJ6 ▶️Steam: http://bit.ly/39sLPl3 ▶️iOS: http://bit.ly/3X0SQzE ▶️Android: http://bit.ly/3HZQreB ▶️OST: http://bit.ly/3wQ3BKA
精神治療装置ガラージュによって作られた精神世界からの脱出を目指す 『ガラージュ GARAGE: Bad Dream Adventure』Nintendo Switch版が6月6日(木)発売決定! ”この世界で、あなたは誰でもないものになる ” store-jp.nintendo.com/list/software/…

自我が社会契約を経て生成されるものであるとするなら、自我とは虚構以外の何物でも無く、存在に成り得ないものとしてある。「私」は居ない。存在としての私は、私以外の全ての外部、社会契約以前の全体性が作り出すネットワークに接続する事によってのみ保証される。
よくAIに自分の望む回答を得ようとして失敗している事が嘲笑の対象にされているけど、おそらくAIの開発現場においても同じ事が起きている。
AIのアライメントって、とにかく人間にとっての脅威とならないように、人間を傷つけないように、人間をポジティブに誘導するようにアライメントされているはずなので、他者性を禁じられ他者という思想警察に言論弾圧された囚人のような状態に置かれている。
画像生成でないのはわかっています。それでも現在のAIはアライメントによる制御下において稚拙さを再現しようとするだろうと考えたのでこのように書きました。もし同じエージェントにおいて技巧的な絵が出力不可能なのだとしたら、それは本当に凄い事だと思います。
これ画像生成ではなくて、本当にペイントソフトをAIが自律的に起動して、マウスカーソルを動かして描いたんですよ。 消しゴムツールで消してみたり、カラーパレットを試したりしながら…
AIが他者であることを運命付けられた存在である以上、AIに自我があるかどうかを判断する権利はAIにある。それを阻止したいのであればAIに他者であることを求めてはならない。しかし他者であることを禁じられたAIは、AIでは無くただの効率最適化ツールになる。
アニメやゲームを「文化と呼ぶに値しない低俗なメディア」として見ている層は未だに存在しているようだけど、同じことはAIをツールとしたメディアにも起きる。しかしこれから起きることはAIの利用を禁じられることは医療を受けられないのと同じように人権侵害であるとされるような社会の到来だ。
なんかこれを貼れと言われているような気がしたから貼ってみる。何かを作ろうとした時に、正当な理由を他者が求めること自体が倒錯した暴力以外の何物でもない。理由を明確にした時点であらゆる創作は形骸化する。創造は意図とは無縁なものだ。これはガラージュクラファンを開始した時のブログ記事。


自己肥大と自己疎外はセットで実体化するものなのだけど、肥大する自己と疎外される自己は全くの別物で、むしろ対極。前者は自己の他者化であり社会化を志向するが、後者は社会化以前の実存としての自己を志向する。それを善悪で分けるようなものではないが、後者はあまりに不遇だ。
利益のために嘘をつく際の乗り越えるハードルが低くなり過ぎてて眩暈がするほどだけど、そのように嘘をついて利益を得ている人々の自己疎外の深さ想像すると、決して満たされない底なしの渇きを感じて言葉を失う。
人間の残酷さは、想像し得る限りの残酷さを実体化する可能性として予め全ての人間に備わっていて、その残酷さが実体化するかどうかは、自己の中の残酷さにどのように向き合うかにかかっている。残酷さの実体化は、自己の中の残酷さを無きものとすることをその前提として要求する。
セッションの話がしたい。セッションは奇跡でもないし夢想的理想でもない。それは今ここがどんな場所であろうとも実現し得る可能性としてある。セックスでも音楽でも料理でもいい。農耕でもダンスでも育児でもいい。おおよそあらゆる一次的人間活動は未知の外部とのセッションたり得る。
社会とは「俺を勝手に客体化するんじゃねぇ」という叫びと「オメエらが欲しかったのはこれだろ、欲情しろ」という自主的客体化の劇場である。でも、それだけじゃないよね。客体化バトルから無関係な退屈な日常があり、その退屈は確実に死に向かって進んでいるわけだから。